拾う人踏む人もなく梅落果
目覚める前に見た夢。どこか、学校のグラウンドらしい。小学校の運動会でする子どもと親が一緒の踊りのように、子どもも大人も、女も男も混ざった大勢の人がグラウンドの中心に輪を作っている。その外側を、どうやら高校の陸上部長距離班らしい男の子たちが同じように輪を作ってぐるぐる走りはじめた。1000メートル3分20秒くらいの結構いいペースだが、なぜか男の子たちはにこにこ笑っている。そのうち内側の輪から何か歓声が上がると、走っている男の子のうちの一人が転び、みんな笑って、走るのを止めた。そこで目が覚めた。
きょうはおそらく、5時頃には一度目を覚ましていたはずだが(ああ、パソコンをつけっぱなしだったなと思った)、そのあと、短い眠りと覚醒を繰り返していた。女房が勘助を呼ぶ声も、雨戸を開ける音も聞いたが、起き出す気にはならず、とろとろと眠っているようないないような状態にあった。結局、おじいさんを激励する女房の大きな声を聞いて、はっきり目が覚めて起き上がったらもう8時半だった。ゆうべ薬の力で眠ったせいだろうか、少し頭痛がする。障子を開けっ放しで寝ているので、部屋に廊下を隔てた窓枠の方形が影を落としている。とはいえ空には雲が多く、向かい側の山々も濃い霞の中でシルエットになっており、その濃淡が山の遠近である。朝食は柔らかめに炊かれたご飯、明太子、牛乳。明太子は、義妹がおじいさん(つまり彼女の父親)の面倒を見てもらっているからと、北海道の特産品を月に一度1年間直送、というのを頼んでくれたもので、その6月分である。1回分が送料込みで5000円だそうで、確かに物はいいのだけれど、女房は届くたびに、「たったこれだけで5000円なの!」と叫びを上げる。だいたいうちは、安いか、量が多いかどちらかの食材しか使わない。確かに今回の明太子も、いかにも厳選したという感じの品物で、しっかりと大きく充実したたらこに、強すぎず弱すぎずの味をしみ込ませてとてもおいしかったが、5本しか入っていなかった。かくして私は1本1000円の明太子を4分の1ほど食べたのである。

(収穫されることなく落果した梅。熟したいい匂いがしていた)
拾う人踏む人もなく梅落果 (nabesan)
ところで、何年か前に完結した『四季花めぐり』という週に一度来る雑誌を買ったのだが、ゆうべネット友達のブログ(ケ・セラ、リンク参照)が兵庫県三田市の永沢寺というところにある花菖蒲園を取り上げていて、調べるためにその雑誌を開いた。で、バインダーにとじられた他のところもぱらぱらめくっていたら、白神山地を扱った号で次のような詩を見つけた。「山毛欅(ぶな)林で」という安水稔和(やすみずとしかず)の作品。
山毛欅林で (安水稔和)
打ち重なる
うすいみどりの葉ごしに
降りてくるやわらかい日の影が
わたしたちの体をそっと包むわすれなさい
目を開いたまま
わすれたいことを
わすれたくないこともすこし。見通しのきく
あかるい林間に
ちらついている木漏れ日が
わたしたちのことばをそっと揺る。おもいだしなさい
目を閉じないで
おもいだしたいことを
おもいだしたくないこともすこしは。
合唱曲の詩にもなりそうである。この詩の鑑賞としてはいかがなものかとは思うけれど、生きているということは、忘れたいことを忘れ、思い出したいことを思い出しながら、確かな予定と不確かな予定をこなしたりこなさなかったりという日を重ねることなのだろう。ところで、忘れるという点について私は絶対の自信をもっており、自分の人生で最大のターニングポイントだった、脊椎をやっつけた事故の日付が5月1日だったか2日だったかさえ、今は曖昧になっている。もうあれから39年も経っているのだから仕方がない。歳月は、ダメージを受けた心身を慰撫する。そうしているうちに、確かにあった出来事や確かに存在していたものは、心の底の深いところに沈んで行き、折に触れて「わすれたくないこと」として浮かび上がって、その時の私たちを励ましたり慰めたりする。
日は翳ってきたが、それでも空は明るい。紫外線にご注意ください、とお天気お姉さんが言いそうな日和である。向かい側の山の霞みも薄くなって、木々の深緑も伐採されて茶色の部分も見えてきた。しきりにウグイスが鳴いている。その他何種類かの鳴き声が聞こえるが、鳴き声で鳥の種類を識別する知識はない。
きょうは透析なので、ここでアップしておきます。写真は全部、きのうのものです。透析の顛末等は夜に、書けたらまた書きます。
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